「障害」をもつ「絵」に関する「うつ」研究(松本卓也先生を参考に)


ラカンの5つの「ディスクール(語らい)」と資本主義

「主人のディスクール

「大学のディスクール

「ヒステリーのディスクール

「分析家のディスクール

「資本主義のディスクール

ディスクールとは、個人を社会に繋ぎとめる社会的紐帯(lien social)のこと

ラカンは、
それらの社会的紐帯が、
その言語活動が、
真理や知とどうような関係を結び、
その社会的紐帯が様々な主体を社会の中でどうように位置付けているかを問題にしようとしている。

いわゆる「障害」という「名」の剰余価値を持った商品(マルクスを参考に)
資本主義経済の中では、あらゆる商品は、「等価」交換される
つまり、ある商品が別の商品や貨幣と交換されたとき、両者の価値は「等しい」とされる。

 

労働者が生み出す剰余価値
労働者は自分の労働力を商品として資本家に売却する。
労働者の商品の生産活動は、一見、、自由意志に基づいて行われる「等価」交換のようでも、実は、それによって生産される商品の価値は、労働力を超えている(剰余価値

 

ラカンの「剰余享楽」
存在が「在る」とは、何か?
「在る」とは、存在によって脚色される、その人の「在る」状態(その人の属性、職業、地位、役割など)
それが、「等価」交換にとって、今、「在る」状態から、別の「在る」状態に、また、さらに、別の「在る」状態へと、連鎖的に移り変わっていく(言語連鎖の「等価」交換)

そうやって、別の「在る」に変化し続けていくうちに、もとの「在る」にあった「何か」を「喪失」している。

この「喪失」のことを「剰余享楽」と、ラカンは呼んでいる。

この「喪失」が、人間のあらゆる思考や行動を決定し、
例えば、「症状」は、この「喪失」に対する関係のなかで個々人がそれぞれの仕方で苦しむ方法であると、ラカンは言う。

 

「剰余享楽」の中の袋小路と5つのディスクール
動因 → 他者
――   ―――
真理   生産物

 

ここからは以下のディスクール共通のこととして、、、、
動因、真理、他者、生産物が、言語連鎖により変化する代表的なものとして、
ラカンが挙げているのは
例えば、普遍的な知、権威、学生、主人、奴隷、分裂した主体、医師、症状についてのさまざまな知、患者など

それらが「斜線を引かれ」ると、それらは、「消える」でなく、「ない」になる。
「ない」と「ゼロ」は違う。
「ない(欠如)(喪失)」への「欲望」が、
なぜ「なくなったか?」への「エネルギーのベクトル」が、
「在って」、
「主人」「奴隷」「資本家」などに対する
「ある言葉」「名付け」「ある属性へと断定」「記号」など
「(剰余享楽を帯びた)レッテル貼り」を断行する。

図の中での「=」は、「等しい」ではなく「その間に挟まれる主体」があるということ。
「主体」の中で、右と左の「図」が「等しい」とされること

「等しい」の文法
言語連鎖――例えば、「主人」に斜線が引かれて、「医者」になったり、「スーツ着て札束もった資本家」になったり、「ボディビルダー」になったり、「刑務所の職員」になったり、、、
「(斜線を引かれた)ない」――「欲望」――「言語連鎖」――「何かの主体」。

「ない」から「何かの主体」の間の「落差」が「ダメージ」になる。

 

① 大学の「ディスクール
「生産物」としての「人間(への知)」には斜線が引かれる。
常に「人間(への知)」へ向かう(剰余享楽)が永遠にたどり着かない。
「主人」を基本とする、「主人」への「知」としての大学の「知」の搾取

 

② 主人の「ディスクール
「主体」が「言語連鎖」で変化(資本主義下におけるさまざまな「奴隷」になる)する
――剰余享楽
――それ(剰余享楽)を搾取する「主人」
――「奴隷」が「主人」の「ディスクール」を「知る」
――「(奴隷となった)主体」は「著しく変更された形でしか主人を知ることができない」

例えば、「超健康な主人」を持つ「病人(奴隷)」が、「病院」に行き、「力の有り余っている主人」のもとでの「奴隷」が、「医者」と「主人」が「=」で結ばれるのを嫌がって「暴れだす」。
それを「看護師(奴隷)」が「止めに入り」、「点滴を打つ」など

「奴隷」については、あの「奴隷」でなく、「主人」を持つ、あらゆる職業の、あらゆる地位をもった主体。
「主人」に文句を言う「公設秘書」とか

 

③ ヒステリー病者のディスクール
「主体」が「分裂している」。
「主体」は「主人」になることを拒絶しつつ、自分の「症状」がなぜ起きるかを「医師」などの「(自身の理想を投影する)主人」に向けて問う。
「主人」は「分裂した主体」の「症状」について、
様々な「知」(剰余享楽)を持つにいたるが、
それは「(分裂した)主体」の一側面にしか至らず、「主人」の位置から失墜する。

 

④ 分析家のディスクール
「患者」(の言語連鎖)に斜線が引かれている。
分析家は「患者」の自由連想(の言語連鎖)を区切る。
その自由連想が分裂したものと示す。
その結果、「患者」の  「主人」の  言語連鎖(剰余享楽)  の「ほかの様式」があることを「現す」.
「患者」は、その「他の様式としての」言語連鎖の「現れ」から、

もとの「自由連想」を横切って、

新たなる構成の仕事を行い、

「症状」を横断すること(新たな「主人」の言語連鎖)が可能になる。

 

新たなる社会紐帯(lien social)を構成する。

 

⑤ 資本主義のディスクール
二つの論点

1、「剰余享楽」が計算可能になり、数えられるようになり、全体化され、資本の蓄積が始まった

2、消費社会の問題
「喪失」の喪失
次々と新しい商品が主体にあてがわれることによって

主体の欲求や要求が仮初めの形ですぐに満足させらてしまい、

欲求のさらに奥にある「欲望の彼岸」が出てこない。

自分の「欲望」が見えてこない。

主体を構成する存在の「喪失」、「欠如」が分からなくなる。

「喪失」、「欠如」からの「回復」という「物語」がもはや機能しない。

 

最後に
「うつ」をもう一度、個人のパーソナリティから切り離して、広義の経済と社会的紐帯(lien social)の面から捉えなければならない。
「うつ」の「患者」に対して、もう一度、時間を与えなければならない。
「構造の中にいる自分」「その構造は一体何なのか?」「その構造の中の自分の位置」について考える時間を。