承認をめぐって――日々異なる「風景」の中で、わたしという存在の中の、何が「承認」され、何が「忘却」されるのか?例えば、なぜ「トラウマ」は「承認」されつつ、「忘却」されるのか?(大河内泰樹先生の議論の一部を引用し、まとめた)――

承認をめぐって――日々異なる「風景」の中で、わたしという存在の中の、何が「承認」され、何が「忘却」されるのか?例えば、なぜ「トラウマ」は「承認」されつつ、「忘却」されるのか?(大河内泰樹先生の議論の一部を引用し、まとめた)――

ある「意味領野存在論」(マルクス ガブリエル)の中で、何かが「存在する」と「承認される」。
ある「わたしの世界」の中での出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、、、「そこ」には「世界が存在する」とされる。
しかし、別の意味領野存在論、例えば、簡単な物理学的な「それ」においては、前述の「ある出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、、」は、物体とそのエネルギー関係として捉えられで「世界は存在する」と言われる。
だから、ガブリエルは言う「その」「世界は存在しない」(のかもしれない)。
例えば、ガブリエルの哲学では、ある世界で「机、素粒子、魔女」が存在したと思った次の瞬間には、別の「世界」に出会う(可能性について検討される)。別の「世界」、野菜屋として「大根、ニンジン、ほうれん草(報連相にもなる)」が「その」「世界」の中で「存在する」。スーパーに入ると「その」「世界」には、「ビール、日本酒、焼酎」が「存在する」。
ガブリエルの哲学では、そんな多元的な世界(「意味領野存在論」が広がっている)
そんな多数の、多元の、多層な「世界」から、複数の「世界」を取り出して、わたしたちを取り巻く、日々異なる「風景」が構成されている。
広がっている?
その風景を構成する「存在」、そして、「存在」が含んでいる「ある出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、記号、、、」。
その中から、今日は、何が「承認」されるのだろうか?(何が「忘却」されるのだろうか?)
今日の、経済活動における「現場」という「意味領野存在論」の中では、どんなモノ、コトが「売り」に出されるだろうか?
マルクスの物象化論では、人と人との関係がモノ(商品)として現れるとした。
ホネットは、物象化を広く、合理的・科学的思考によって人がモノとして扱われることとして理解する。
この経済活動では、主体のみならず、主体内部のあらゆる商品、モノ、コト(トラウマさえも例外ではない。もしかしたら、こんなことを書ける僕は「幸せ」かもしれない)が取引される。
そして、日々異なる「意味領野存在論」の中の「ある出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、、」は、「貨幣」の力によって、各自、時には「高値」で「承認され」、時には「タダ同然」の「価格」によって、「忘却の対象として」扱われることとなる。
例えば、ホネットは「承認」には三形態あるとされる。
わたし(筆者)がそれらを本当に知っているかどうかは別として、「愛」「法(権利)」「価値評価(連帯)」を挙げている。
そして、ホネットは、承認を初めて知覚するのは、逆説的に、この三つのうちどれかの「承認」が毀損され、傷付き(欠如として受け入れられる)時であるとする。ホネットはそこに「規範性」がある(あるスタンダードな線がある)とする。
重要なのは、ホネットが規範性を基礎付けるのは、理想的な承認関係があると設定するのではなく、承認関係の毀損、「軽視」によって生じる当事者の苦しみによってである。
「軽視」の例として、わたしは「忘却」を挙げる。
例えば、心理学では、「忘却」の概念に、意味領域に対立するものとして、「(いつまでも)記憶する、思い出す」「トラウマ」「反復強迫」などの概念が挙げられる。
それらは、例え、日々、「風景」が異なっていったとしても、いつまでも、主体の中に残存し続けるだろう。

存在、モノ、コト、出来事などは、多様な「意味領野存在論」の、多元的な、多層な「世界」の中でも、「モノを変え、コトを変え(○○度目の「忘却」)」、「存在し続ける」だろう。そして、時には「承認」され、時には「忘却されたことにする」こととされ、「存在し続ける」だろう。いや、自ら進んで「忘却し、貨幣の力に任せる」場合もある。
以上がホネットのアイデンティティに関する議論、ガブリエルの存在論に関する議論をもとにした「未来に向かいつつも味わうわたしの挫折」だ。

19世紀の哲学者ヘーゲルの承認論は初期マルクスからサルトルラカンなどに影響を与えた。
現代では、承認をめぐる議論はアイデンティティの政治を巡る議論とされている。これまでは、承認は、分配の公平さをめぐって展開されていたのに対し、他者から認められること、認められないことが主とされる。そして、ホネットは、それらが社会や政治において重要な意義を持つことを主張する。

「存在」の何に対して、アイデンティティを持ち、どの部分に「光の秩序」(ドゥルーズ)が当てられ、どのような「承認」の「欠如」(ラカン)を帯び、日々どんな「世界に棲み」、どのような「制度」、「その」「世界」の中の「人口論」(フーコー)に身をまかせているか?

そして、それらが○○度目の「忘却」により、どのようにして、あるひとつの「商品」としてパッケージに包まれ、「わたし」となるのか?

「わたし」の、「わたし」への、「わたし」に関する、「わたし」を軸とした――「承認の闘争」はどこへいくのだろうか?

その「承認」はどこへ行くのだろうか?
(このヘーゲルの「円環」モデル。はたして、ここには、どのような問題点があるのだろう?)