個人的な「傷(「と」絵)」からみんなの「傷(「と」絵)」へ その(1)

個人的な「傷(「と」絵)」からみんなの「傷(「と」絵)」へ
バトラー先生の「傷」の話。
千葉雅也先生によると
「あるショックを受けて、まさに、脳のネットワークにばっさりとした、衝撃が起こる。すると、認知過程から思考パターンまで今までと全く別人の認知を持つ人間になる」
それを「傷」という。
僕もまたある「ショック」を受けて、頭が真っ白になり、アクティングアウト(行動化)を引き起こして、、、
「ショック」は「動因」。
その後の頭が真っ白の中での「行動化」、について、どこまで「意味」を求めることができるだろう。
「頭が真っ白」なまま行動化する状態なんて、周囲の人は気が付かない。止められようがない。
自分でもどこまで「自覚的に」「行動」していたのだろう。
思考も断片的で、たぶん、こういうのを「詩」を言うのだろう。
そして、「傷」を負った。

果たしてその「傷」は個人的な「認知」レベルでの範囲にとどまるのか?
それは、周囲を巻き込んで「みんなの傷」として生まれ変わるのではないのだろうか?

果たして、それを「個人的な傷」と個人が引き受け、「治療」の範囲内にとどめることが正解なのか?

「傷を負った後」について
個人(の身体的)レベル
周囲の人間関係レベル
家族レベル
で考えていくと、「傷」が、個人から各レベルへ、「線」がのびていく、引かれる。

もとの「黒」や「白」の色彩を帯びた「線」がそれぞれのレベルの各個人の「深み(日によってその深度が異なる)」に到達すると「真っ赤」「ダーク」「光(ドゥルーズ)」などの色彩を帯びた「認識」「葛藤」などへと「一時停止」する。

それぞれの「色彩」が、「認識」が混ざり合って、一つの「集団の「傷」(「と」絵)」が完成する。ドゥルーズの生成。

その「絵」について、受け取った分だけ、受け止めた分だけ、精神科医大森健一市橋秀夫の力を借りて書いてみる。
激しい絵、やさしい絵「色々」ある。

「これも」「あれも」という多面的、重層的なアプローチが求められる。
「絵」によって、「極めて受け身で傷つきやすく」になる。「内閉的」にもなる。「他罰的で、攻撃的」にもなる。「ささいな出来事で不安や混乱に陥る」にもなる。
それら全部が生成のために必要だ。

どれもこれも、「個人的な」「線」から「集団的な」「線」、そして「絵」へと繋がっていく。

(「個人レベル」での「適応」から、「個人から集団への」橋渡し時の「適応」、「集団レベル」での「適応」、「集団の各個人」での「適応」については、まだまだ考えなくてはならない。思弁的実在論。)

前提として、「絵」に対する、を形成する「主観」を養うこと。
個人的な「傷(「と」絵)」からみんなの「傷(「と」絵)」への「間」の「幅」の中で、それぞれに発生する、している「主観」を大切にすること。

実は、「主観」を大切にするといっても、難しい
「自分がなぜこう考えるか?感じるか?」わからない(いわゆる心の病気もここから発生する)
「客観的なデータ」「証拠」「周りから見た状況」を挙げられてもピンとこない。生きているかんじがしない。

その上で、今回はある種の「傷」から「傷」への「絵」の中で、どう「主観」を「ある幅の中で動いてもらう」か?

「なぜこう考えるかわからない主観」の枠から出て、「行動化」せず「主観」の「消化」「昇華」などにもっていけばいいのか?(これは自分の限界を超えている)

その為の、「絵」の構成、枠などを精神医学から考える。
「主観」を取り扱う様々な「技法」を今回は「絵」に絞って考える。。。。

絵画療法も、いろんな手技を必要とするのは、受ける人の多様性を担保する為。