日本語使うと何が「分」かるんだろうなあ
日本語は、「分かった」
などと言う。
まず、何かを「分け」ないと「了解できない」
珍しいよなあ。
じゃないと、「話が始まらない」
まるで未来が始まらない。
まず、「分ける」、じゃないと「通じない」
日本に帰ってきて、なぜそんなに「分ける」ことに必死なのか?
一瞬で、一言で話を通じようとすることに必死なのか?
じゃないと、「仕事ができない」とか
「話が分からない」とは
果てには、か「わって」いる、とか。
千葉雅也も、言ってたな
「動きすぎてはいけない」
要するに、その「分けた」後の世界で
「動きすぎてはいけない」ということだろ。
クビになった仕事先で言われたな
俺も社長も、ずるい奴「と」汚い奴が嫌いなんだ。
最初、自分だなと思った。正解
次、だれかを重ねることに。
その次、、、なんか違う。
いろんなグループ見てきたけど、
なんか「ずるい奴」が現れる「と」、並列的に「汚い奴」が現れることに気がついた。超個人的。
更に言うと、○○「と」○○は、並列的になって、グループを巻き込んで、「離脱」「発言」「忠誠」のほうへ行く。
なにか、あらゆるグループの空間には、そのような闇が潜んでいるような気がしてしまう。
この「と」について、考察したのが、ドゥルーズの「資本主義「と」分裂症」だ。
なんなんだろう。
ドゥルーズ自身は精神病という「記号」も、それを帯びた人も大嫌いで、
だから、主体という概念のもとを、ハイデガーの
存在「と」存在者(「と」その間の媒介者)からとって、継承してきたといわれている(日本では)
そして、様々な事象に「と」で並列に繋がる主体を概念化した。
そのドゥルーズの課題を引き受けたのが、松本卓也で「人はみな妄想する」の中で、グループの闇から立ち上がる並列性を
神経症グループ「と」精神病グループに「分けた」
(お前なら話は「分かる」けど馬鹿にするななどと言われそうだけど、、)
他にも、グループの闇には
動物「と」人間
モノ「と」コト
隊長「と」一兵卒
子供「と」大人
男「と」女
(わたしにとって)いいひと「と」きらいなひと
など
いろいろ、一旦、「と」から始まって、「離脱」から「忠誠」へのルートがある。
資本主義では、「離脱」から「忠誠」への先は
品質「と」価格だ。
更に、消費者による、
品質が高くても価格が高いので「離脱する」
価格が安くても品質が悪いので「離脱する」
などなどいろんなルートがある。
「分かった!」、、この先にはなにが待っているのだろう。
ある「概念」で形成された「世界」だろう。
なんとなくせわしなさ、閉そく性、窮屈さを感じてしまう。
何をそんなに、「分ける」ことにいつも先を急ぐのか?
「闇」が「分ける」のか?
「分ける」から「闇」が現れるのか?
そして、なぜ、いつも並列性の「と」が待っているのか。
「分かった」から「離脱~忠誠」へのルートについて「何も分からないこと」は罪なのだろうか。
分からないことでいっぱいなことを前提にして、「一旦留保」にしてはいけないのだろうか?