「病め」とまでは言わないけど、せめて「悩む」「考える」スペースを。(宇野邦一先生の議論を参考に。様々な問題提起をもとに、それを柱に、その間に「わたし」のスペース)

「病め」とまでは言わないけど、せめて「悩む」「考える」スペースを。(宇野邦一先生の議論を参考に。様々な問題提起をもとに、それを柱に、その間に「わたし」のスペース)
知覚を通じて認識されるものはすべて疑わしい。
それは、デカルトの、西洋古典的哲学の、おおむねの基本的立場だっだ。
第一の問題として
確実に認識するためには、知覚と思考を分離しなければならない。
でも、本当に知覚に影響されないはったく純粋で自律的な思考の能力などあるのか?
という問いがある。
第二の問題として
デカルトは、情念や知覚を生み出す身体というやっかいな「機械」の働きを、少しも神秘化することなく精密に知ろうとする点においても徹底していた。

その第一と第二の問題から一歩「踏み込んだ瞬間」の問い。「仮定」。

この「仮定」とはどういうものか?
まず、わたしの思考は、身体にも、知覚にも外延的な広がりにも属さず、あくまでも、それを超越した次元にあると「仮定」した。(脳科学を通った今となってはなかなかたてられない問い)
また、この思考の能力(理性)は、「わたし」の能力で、他のなにものにも属さないで自律している。
それは、もはや神の存在を否定はしないが、必要としていない。デカルトの「信」は神でなく、人間の「理性」に向かっていた。
それらの「人間の「理性」」は「コギト」として、神は「コギト」の「明証性」を保証すべき「完全な「存在者」」として、「コギト」が宣言されたあとでやっと「言及される」
思考の場所は身体の中にも、脳の中にもなく、それ自体はまったく「神秘的な実体」だった。

(もちろん、デカルトの「理性」は、その後、カントによって「純粋理性」の問題としてあらわれてくる。)

ただ、そのデカルトの実践から
1. 人間の身体、情念をあくまで機械とみなす立場
2. 思考の主体をあらゆる外部性から分離し抽象し普遍化する徹底した思索
が生まれた。

神の存在証明すら、その二つの要請に従っていた。

思考に帯びている知覚、身体、情念、神などは、それぞれに「感覚」「世界」を構成している。
その世界を分割する「感覚」「世界」がそれぞれに「たちあげる」思考の発生「過程」について、その「現場」に立ち会うこと自体を一つの哲学的実践として、その哲学的実践を何度も再演すること、を創造した。

それを、宇野先生は、思考の発生に立ち会うものの「叫び」と比喩した。

ある思考が生まれる制度的前提の「外部」から、まったく未知の「素材」を取り出してきて、その思考の発生への異なるアプローチを「わたし」を主体にして行った。

やがて、様々な文学者たちが、思考の発生過程そのものを、思考することの困難さを、その苦しさを、「知覚」する身体の「感覚」の過程を描いていった。

第一の問い
思考にとって、この世界、社会、制度などは阻害し、排除するものとしてしか働かないのか?
第二の問い
ある思考は、必ず、「それを思考した者、もの」に収斂されるのか?

第一の問いについて
文学者たちは、まさに、「壁」にぶつかる、それゆえに思考は、不可能に、麻痺状態に、中途半端に、なることを通じて、そこから知覚されるものを巡って思考し続けた。
それぞれの思考が「壁」にぶつかり「自意識」となって、その「自意識の地理学」について探求していった。「感覚の化学」ともいわれる。

問題となる
第二の問い(誰かが思考の発生に立ち会い「叫び」声をあげた後の「世界」)
ある思考(ここからデカルトはまっすぐ「コギト」的主体へと向かった)は、必ず、「それを思考した者、もの」に収斂される(ここからメルロポンティの議論――その者、モノ固有の知覚という話――が始まる)のか?

その前に、ニーチェの問い
人間の知性は、その主要な力を「欺瞞」として持っている。
道徳、いや、道徳以前に、言語や知覚の発生構造そのものに「欺瞞」が含まれている。
「花」はなぜ「ハナ」と呼ぶ?それは、必然ではなく、全くの恣意的である。
また、「花」に対して「欺瞞を持つ」「知覚」が反応する、そして、「欺瞞」を持った「言語」がそれを指す。
二重の欺瞞かもしれない。

更に、ニーチェの問い
理解してないものを、理解したと思い込む。
知覚してないものを、知覚したと思い込む。
知覚しているのに、知覚していないことにする。
それらは、「個体の維持」の為に、仕方がない部分もある。同時に、知覚する人間がいなければ、「虚偽?の世界」もありえない。
知覚をめぐる様々な、組織、編成、工作、抗争が絶えず繰り広げられている。
それは、「生存の美学」かもしれない。

ニーチェの問いから、更に、ベンヤミンの問いに
マルクスのテーゼ――「五感は人類史の賜物」である。
そこから、知覚を決定する物質的、技術的条件に注意を向けた。
例えば、かれは、写真、映画の登場から、新たな視覚メディアがもたらす知覚の変容について思考した。
都市とは、新しい知覚の場であり、商品はまさに、そのような場で知覚され購買されるようになった。
資本主義は、生産、市場、労働、搾取だけでなく、「知覚の」資本主義でもあるのではないか?

ドゥルーズの問い――資本主義のそれぞれの「知覚」の、それぞれに「固有」の「知覚」の「痛み」とどう向き合うか?
思考は、知覚は、無秩序、混沌などから始まる――世界を構成する無限の個人差、差異、は、絶えず、その度に感覚され、知覚されながらも、選別され、編成され、局限される。
そして、そのような差異の「深さ」「痛み」は、ある限定された拡がりに「還元されてしまう」

さらに、ドゥルーズの一つの問い
差異の無限の「深さ」は、知覚不可能でありながら、知覚されるしかないもの。
だから、この「深さ」といかに対面するか?しないか?

フーコーの問い――権力の様々な装置や技術が、まさに知覚するものを形式化し、様式化する
彼は、権力の制度の中で、知覚の場がどのように構成されるかを考えた。「言葉と物」のなかで、とりわけ「表象」の問題が、それが権力によって成型される知覚の場に対応することが、やがて「監獄の誕生」では示される。

言葉はモノ自体ではなく、モノの知覚を意味するものだったら?

ドゥルーズの映画に対する問題提起
映画史を描くというより、知覚の編成の歴史として再考してみては?
映画史を、地質学のような発想で、映画の中に知覚の過程や構造化を再発見することにしてみては?

再度、デカルトの問題提起
思考と知覚が、それぞれ「純粋な」「自律的な」方向へいくのなら
知覚されるものとは、事物の観念になるかもしれない。
存在する、ことについても同様に。

存在についても問題提起できる
もし、存在から知覚的に、距離をとってみると。
最小限の知覚の,反復を続けていくと、常に同じ思考しかうまれないのか?
いや、この最小化の手続きでも、得られるようになる知覚は確かにある。
それはもはや知覚ではなく、知覚の「隙間」において知覚されるものである。

メイヤスーの問題提起
知覚から、事物、そして出来事への変換が起きている。
それとき、時間は、断絶のない連続的な時間から、不連続の多方向的時間へと変化しているのではないか?
これは検証不可能。
充実した連続性の時間と、そこから決定的に断然して、多次元的な時間について、その創造性についてはこれから。

ドゥルーズの言語についての問題提起
それが本当にあったことなのか、だれが言ったことなのか、、、わたしたちはまず言葉の(教育)中に導かれる。吹き込まれる。
その根本を飛ばして、発話者の「主語」を教えられ、「主体」があると教えられ、命題には真偽があると教えられる。
言葉と知覚には、本来、断裂があるけれど、それは、たまにしか露見しない。
それでも、第三世界の映画では、「語られること」によって、民衆の存在と主体性が現れてきた。それが「出来事」になり、「物語」になっていった。

これらの問題提起から、「世界観」のような安定した立場を見出すことは、決してできない。