承認をめぐって――日々異なる「風景」の中で、わたしという存在の中の、何が「承認」され、何が「忘却」されるのか?例えば、なぜ「トラウマ」は「承認」されつつ、「忘却」されるのか?(大河内泰樹先生の議論の一部を引用し、まとめた)――

承認をめぐって――日々異なる「風景」の中で、わたしという存在の中の、何が「承認」され、何が「忘却」されるのか?例えば、なぜ「トラウマ」は「承認」されつつ、「忘却」されるのか?(大河内泰樹先生の議論の一部を引用し、まとめた)――

ある「意味領野存在論」(マルクス ガブリエル)の中で、何かが「存在する」と「承認される」。
ある「わたしの世界」の中での出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、、、「そこ」には「世界が存在する」とされる。
しかし、別の意味領野存在論、例えば、簡単な物理学的な「それ」においては、前述の「ある出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、、」は、物体とそのエネルギー関係として捉えられで「世界は存在する」と言われる。
だから、ガブリエルは言う「その」「世界は存在しない」(のかもしれない)。
例えば、ガブリエルの哲学では、ある世界で「机、素粒子、魔女」が存在したと思った次の瞬間には、別の「世界」に出会う(可能性について検討される)。別の「世界」、野菜屋として「大根、ニンジン、ほうれん草(報連相にもなる)」が「その」「世界」の中で「存在する」。スーパーに入ると「その」「世界」には、「ビール、日本酒、焼酎」が「存在する」。
ガブリエルの哲学では、そんな多元的な世界(「意味領野存在論」が広がっている)
そんな多数の、多元の、多層な「世界」から、複数の「世界」を取り出して、わたしたちを取り巻く、日々異なる「風景」が構成されている。
広がっている?
その風景を構成する「存在」、そして、「存在」が含んでいる「ある出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、記号、、、」。
その中から、今日は、何が「承認」されるのだろうか?(何が「忘却」されるのだろうか?)
今日の、経済活動における「現場」という「意味領野存在論」の中では、どんなモノ、コトが「売り」に出されるだろうか?
マルクスの物象化論では、人と人との関係がモノ(商品)として現れるとした。
ホネットは、物象化を広く、合理的・科学的思考によって人がモノとして扱われることとして理解する。
この経済活動では、主体のみならず、主体内部のあらゆる商品、モノ、コト(トラウマさえも例外ではない。もしかしたら、こんなことを書ける僕は「幸せ」かもしれない)が取引される。
そして、日々異なる「意味領野存在論」の中の「ある出来事、ある存在、あんなモノ、こんなコト、、」は、「貨幣」の力によって、各自、時には「高値」で「承認され」、時には「タダ同然」の「価格」によって、「忘却の対象として」扱われることとなる。
例えば、ホネットは「承認」には三形態あるとされる。
わたし(筆者)がそれらを本当に知っているかどうかは別として、「愛」「法(権利)」「価値評価(連帯)」を挙げている。
そして、ホネットは、承認を初めて知覚するのは、逆説的に、この三つのうちどれかの「承認」が毀損され、傷付き(欠如として受け入れられる)時であるとする。ホネットはそこに「規範性」がある(あるスタンダードな線がある)とする。
重要なのは、ホネットが規範性を基礎付けるのは、理想的な承認関係があると設定するのではなく、承認関係の毀損、「軽視」によって生じる当事者の苦しみによってである。
「軽視」の例として、わたしは「忘却」を挙げる。
例えば、心理学では、「忘却」の概念に、意味領域に対立するものとして、「(いつまでも)記憶する、思い出す」「トラウマ」「反復強迫」などの概念が挙げられる。
それらは、例え、日々、「風景」が異なっていったとしても、いつまでも、主体の中に残存し続けるだろう。

存在、モノ、コト、出来事などは、多様な「意味領野存在論」の、多元的な、多層な「世界」の中でも、「モノを変え、コトを変え(○○度目の「忘却」)」、「存在し続ける」だろう。そして、時には「承認」され、時には「忘却されたことにする」こととされ、「存在し続ける」だろう。いや、自ら進んで「忘却し、貨幣の力に任せる」場合もある。
以上がホネットのアイデンティティに関する議論、ガブリエルの存在論に関する議論をもとにした「未来に向かいつつも味わうわたしの挫折」だ。

19世紀の哲学者ヘーゲルの承認論は初期マルクスからサルトルラカンなどに影響を与えた。
現代では、承認をめぐる議論はアイデンティティの政治を巡る議論とされている。これまでは、承認は、分配の公平さをめぐって展開されていたのに対し、他者から認められること、認められないことが主とされる。そして、ホネットは、それらが社会や政治において重要な意義を持つことを主張する。

「存在」の何に対して、アイデンティティを持ち、どの部分に「光の秩序」(ドゥルーズ)が当てられ、どのような「承認」の「欠如」(ラカン)を帯び、日々どんな「世界に棲み」、どのような「制度」、「その」「世界」の中の「人口論」(フーコー)に身をまかせているか?

そして、それらが○○度目の「忘却」により、どのようにして、あるひとつの「商品」としてパッケージに包まれ、「わたし」となるのか?

「わたし」の、「わたし」への、「わたし」に関する、「わたし」を軸とした――「承認の闘争」はどこへいくのだろうか?

その「承認」はどこへ行くのだろうか?
(このヘーゲルの「円環」モデル。はたして、ここには、どのような問題点があるのだろう?)

「病め」とまでは言わないけど、せめて「悩む」「考える」スペースを。(宇野邦一先生の議論を参考に。様々な問題提起をもとに、それを柱に、その間に「わたし」のスペース)

「病め」とまでは言わないけど、せめて「悩む」「考える」スペースを。(宇野邦一先生の議論を参考に。様々な問題提起をもとに、それを柱に、その間に「わたし」のスペース)
知覚を通じて認識されるものはすべて疑わしい。
それは、デカルトの、西洋古典的哲学の、おおむねの基本的立場だっだ。
第一の問題として
確実に認識するためには、知覚と思考を分離しなければならない。
でも、本当に知覚に影響されないはったく純粋で自律的な思考の能力などあるのか?
という問いがある。
第二の問題として
デカルトは、情念や知覚を生み出す身体というやっかいな「機械」の働きを、少しも神秘化することなく精密に知ろうとする点においても徹底していた。

その第一と第二の問題から一歩「踏み込んだ瞬間」の問い。「仮定」。

この「仮定」とはどういうものか?
まず、わたしの思考は、身体にも、知覚にも外延的な広がりにも属さず、あくまでも、それを超越した次元にあると「仮定」した。(脳科学を通った今となってはなかなかたてられない問い)
また、この思考の能力(理性)は、「わたし」の能力で、他のなにものにも属さないで自律している。
それは、もはや神の存在を否定はしないが、必要としていない。デカルトの「信」は神でなく、人間の「理性」に向かっていた。
それらの「人間の「理性」」は「コギト」として、神は「コギト」の「明証性」を保証すべき「完全な「存在者」」として、「コギト」が宣言されたあとでやっと「言及される」
思考の場所は身体の中にも、脳の中にもなく、それ自体はまったく「神秘的な実体」だった。

(もちろん、デカルトの「理性」は、その後、カントによって「純粋理性」の問題としてあらわれてくる。)

ただ、そのデカルトの実践から
1. 人間の身体、情念をあくまで機械とみなす立場
2. 思考の主体をあらゆる外部性から分離し抽象し普遍化する徹底した思索
が生まれた。

神の存在証明すら、その二つの要請に従っていた。

思考に帯びている知覚、身体、情念、神などは、それぞれに「感覚」「世界」を構成している。
その世界を分割する「感覚」「世界」がそれぞれに「たちあげる」思考の発生「過程」について、その「現場」に立ち会うこと自体を一つの哲学的実践として、その哲学的実践を何度も再演すること、を創造した。

それを、宇野先生は、思考の発生に立ち会うものの「叫び」と比喩した。

ある思考が生まれる制度的前提の「外部」から、まったく未知の「素材」を取り出してきて、その思考の発生への異なるアプローチを「わたし」を主体にして行った。

やがて、様々な文学者たちが、思考の発生過程そのものを、思考することの困難さを、その苦しさを、「知覚」する身体の「感覚」の過程を描いていった。

第一の問い
思考にとって、この世界、社会、制度などは阻害し、排除するものとしてしか働かないのか?
第二の問い
ある思考は、必ず、「それを思考した者、もの」に収斂されるのか?

第一の問いについて
文学者たちは、まさに、「壁」にぶつかる、それゆえに思考は、不可能に、麻痺状態に、中途半端に、なることを通じて、そこから知覚されるものを巡って思考し続けた。
それぞれの思考が「壁」にぶつかり「自意識」となって、その「自意識の地理学」について探求していった。「感覚の化学」ともいわれる。

問題となる
第二の問い(誰かが思考の発生に立ち会い「叫び」声をあげた後の「世界」)
ある思考(ここからデカルトはまっすぐ「コギト」的主体へと向かった)は、必ず、「それを思考した者、もの」に収斂される(ここからメルロポンティの議論――その者、モノ固有の知覚という話――が始まる)のか?

その前に、ニーチェの問い
人間の知性は、その主要な力を「欺瞞」として持っている。
道徳、いや、道徳以前に、言語や知覚の発生構造そのものに「欺瞞」が含まれている。
「花」はなぜ「ハナ」と呼ぶ?それは、必然ではなく、全くの恣意的である。
また、「花」に対して「欺瞞を持つ」「知覚」が反応する、そして、「欺瞞」を持った「言語」がそれを指す。
二重の欺瞞かもしれない。

更に、ニーチェの問い
理解してないものを、理解したと思い込む。
知覚してないものを、知覚したと思い込む。
知覚しているのに、知覚していないことにする。
それらは、「個体の維持」の為に、仕方がない部分もある。同時に、知覚する人間がいなければ、「虚偽?の世界」もありえない。
知覚をめぐる様々な、組織、編成、工作、抗争が絶えず繰り広げられている。
それは、「生存の美学」かもしれない。

ニーチェの問いから、更に、ベンヤミンの問いに
マルクスのテーゼ――「五感は人類史の賜物」である。
そこから、知覚を決定する物質的、技術的条件に注意を向けた。
例えば、かれは、写真、映画の登場から、新たな視覚メディアがもたらす知覚の変容について思考した。
都市とは、新しい知覚の場であり、商品はまさに、そのような場で知覚され購買されるようになった。
資本主義は、生産、市場、労働、搾取だけでなく、「知覚の」資本主義でもあるのではないか?

ドゥルーズの問い――資本主義のそれぞれの「知覚」の、それぞれに「固有」の「知覚」の「痛み」とどう向き合うか?
思考は、知覚は、無秩序、混沌などから始まる――世界を構成する無限の個人差、差異、は、絶えず、その度に感覚され、知覚されながらも、選別され、編成され、局限される。
そして、そのような差異の「深さ」「痛み」は、ある限定された拡がりに「還元されてしまう」

さらに、ドゥルーズの一つの問い
差異の無限の「深さ」は、知覚不可能でありながら、知覚されるしかないもの。
だから、この「深さ」といかに対面するか?しないか?

フーコーの問い――権力の様々な装置や技術が、まさに知覚するものを形式化し、様式化する
彼は、権力の制度の中で、知覚の場がどのように構成されるかを考えた。「言葉と物」のなかで、とりわけ「表象」の問題が、それが権力によって成型される知覚の場に対応することが、やがて「監獄の誕生」では示される。

言葉はモノ自体ではなく、モノの知覚を意味するものだったら?

ドゥルーズの映画に対する問題提起
映画史を描くというより、知覚の編成の歴史として再考してみては?
映画史を、地質学のような発想で、映画の中に知覚の過程や構造化を再発見することにしてみては?

再度、デカルトの問題提起
思考と知覚が、それぞれ「純粋な」「自律的な」方向へいくのなら
知覚されるものとは、事物の観念になるかもしれない。
存在する、ことについても同様に。

存在についても問題提起できる
もし、存在から知覚的に、距離をとってみると。
最小限の知覚の,反復を続けていくと、常に同じ思考しかうまれないのか?
いや、この最小化の手続きでも、得られるようになる知覚は確かにある。
それはもはや知覚ではなく、知覚の「隙間」において知覚されるものである。

メイヤスーの問題提起
知覚から、事物、そして出来事への変換が起きている。
それとき、時間は、断絶のない連続的な時間から、不連続の多方向的時間へと変化しているのではないか?
これは検証不可能。
充実した連続性の時間と、そこから決定的に断然して、多次元的な時間について、その創造性についてはこれから。

ドゥルーズの言語についての問題提起
それが本当にあったことなのか、だれが言ったことなのか、、、わたしたちはまず言葉の(教育)中に導かれる。吹き込まれる。
その根本を飛ばして、発話者の「主語」を教えられ、「主体」があると教えられ、命題には真偽があると教えられる。
言葉と知覚には、本来、断裂があるけれど、それは、たまにしか露見しない。
それでも、第三世界の映画では、「語られること」によって、民衆の存在と主体性が現れてきた。それが「出来事」になり、「物語」になっていった。

これらの問題提起から、「世界観」のような安定した立場を見出すことは、決してできない。

 

 

 

 

「障害」をもつ「絵」に関する「うつ」研究(松本卓也先生を参考に)


ラカンの5つの「ディスクール(語らい)」と資本主義

「主人のディスクール

「大学のディスクール

「ヒステリーのディスクール

「分析家のディスクール

「資本主義のディスクール

ディスクールとは、個人を社会に繋ぎとめる社会的紐帯(lien social)のこと

ラカンは、
それらの社会的紐帯が、
その言語活動が、
真理や知とどうような関係を結び、
その社会的紐帯が様々な主体を社会の中でどうように位置付けているかを問題にしようとしている。

いわゆる「障害」という「名」の剰余価値を持った商品(マルクスを参考に)
資本主義経済の中では、あらゆる商品は、「等価」交換される
つまり、ある商品が別の商品や貨幣と交換されたとき、両者の価値は「等しい」とされる。

 

労働者が生み出す剰余価値
労働者は自分の労働力を商品として資本家に売却する。
労働者の商品の生産活動は、一見、、自由意志に基づいて行われる「等価」交換のようでも、実は、それによって生産される商品の価値は、労働力を超えている(剰余価値

 

ラカンの「剰余享楽」
存在が「在る」とは、何か?
「在る」とは、存在によって脚色される、その人の「在る」状態(その人の属性、職業、地位、役割など)
それが、「等価」交換にとって、今、「在る」状態から、別の「在る」状態に、また、さらに、別の「在る」状態へと、連鎖的に移り変わっていく(言語連鎖の「等価」交換)

そうやって、別の「在る」に変化し続けていくうちに、もとの「在る」にあった「何か」を「喪失」している。

この「喪失」のことを「剰余享楽」と、ラカンは呼んでいる。

この「喪失」が、人間のあらゆる思考や行動を決定し、
例えば、「症状」は、この「喪失」に対する関係のなかで個々人がそれぞれの仕方で苦しむ方法であると、ラカンは言う。

 

「剰余享楽」の中の袋小路と5つのディスクール
動因 → 他者
――   ―――
真理   生産物

 

ここからは以下のディスクール共通のこととして、、、、
動因、真理、他者、生産物が、言語連鎖により変化する代表的なものとして、
ラカンが挙げているのは
例えば、普遍的な知、権威、学生、主人、奴隷、分裂した主体、医師、症状についてのさまざまな知、患者など

それらが「斜線を引かれ」ると、それらは、「消える」でなく、「ない」になる。
「ない」と「ゼロ」は違う。
「ない(欠如)(喪失)」への「欲望」が、
なぜ「なくなったか?」への「エネルギーのベクトル」が、
「在って」、
「主人」「奴隷」「資本家」などに対する
「ある言葉」「名付け」「ある属性へと断定」「記号」など
「(剰余享楽を帯びた)レッテル貼り」を断行する。

図の中での「=」は、「等しい」ではなく「その間に挟まれる主体」があるということ。
「主体」の中で、右と左の「図」が「等しい」とされること

「等しい」の文法
言語連鎖――例えば、「主人」に斜線が引かれて、「医者」になったり、「スーツ着て札束もった資本家」になったり、「ボディビルダー」になったり、「刑務所の職員」になったり、、、
「(斜線を引かれた)ない」――「欲望」――「言語連鎖」――「何かの主体」。

「ない」から「何かの主体」の間の「落差」が「ダメージ」になる。

 

① 大学の「ディスクール
「生産物」としての「人間(への知)」には斜線が引かれる。
常に「人間(への知)」へ向かう(剰余享楽)が永遠にたどり着かない。
「主人」を基本とする、「主人」への「知」としての大学の「知」の搾取

 

② 主人の「ディスクール
「主体」が「言語連鎖」で変化(資本主義下におけるさまざまな「奴隷」になる)する
――剰余享楽
――それ(剰余享楽)を搾取する「主人」
――「奴隷」が「主人」の「ディスクール」を「知る」
――「(奴隷となった)主体」は「著しく変更された形でしか主人を知ることができない」

例えば、「超健康な主人」を持つ「病人(奴隷)」が、「病院」に行き、「力の有り余っている主人」のもとでの「奴隷」が、「医者」と「主人」が「=」で結ばれるのを嫌がって「暴れだす」。
それを「看護師(奴隷)」が「止めに入り」、「点滴を打つ」など

「奴隷」については、あの「奴隷」でなく、「主人」を持つ、あらゆる職業の、あらゆる地位をもった主体。
「主人」に文句を言う「公設秘書」とか

 

③ ヒステリー病者のディスクール
「主体」が「分裂している」。
「主体」は「主人」になることを拒絶しつつ、自分の「症状」がなぜ起きるかを「医師」などの「(自身の理想を投影する)主人」に向けて問う。
「主人」は「分裂した主体」の「症状」について、
様々な「知」(剰余享楽)を持つにいたるが、
それは「(分裂した)主体」の一側面にしか至らず、「主人」の位置から失墜する。

 

④ 分析家のディスクール
「患者」(の言語連鎖)に斜線が引かれている。
分析家は「患者」の自由連想(の言語連鎖)を区切る。
その自由連想が分裂したものと示す。
その結果、「患者」の  「主人」の  言語連鎖(剰余享楽)  の「ほかの様式」があることを「現す」.
「患者」は、その「他の様式としての」言語連鎖の「現れ」から、

もとの「自由連想」を横切って、

新たなる構成の仕事を行い、

「症状」を横断すること(新たな「主人」の言語連鎖)が可能になる。

 

新たなる社会紐帯(lien social)を構成する。

 

⑤ 資本主義のディスクール
二つの論点

1、「剰余享楽」が計算可能になり、数えられるようになり、全体化され、資本の蓄積が始まった

2、消費社会の問題
「喪失」の喪失
次々と新しい商品が主体にあてがわれることによって

主体の欲求や要求が仮初めの形ですぐに満足させらてしまい、

欲求のさらに奥にある「欲望の彼岸」が出てこない。

自分の「欲望」が見えてこない。

主体を構成する存在の「喪失」、「欠如」が分からなくなる。

「喪失」、「欠如」からの「回復」という「物語」がもはや機能しない。

 

最後に
「うつ」をもう一度、個人のパーソナリティから切り離して、広義の経済と社会的紐帯(lien social)の面から捉えなければならない。
「うつ」の「患者」に対して、もう一度、時間を与えなければならない。
「構造の中にいる自分」「その構造は一体何なのか?」「その構造の中の自分の位置」について考える時間を。

個人的な「傷(「と」絵)」からみんなの「傷(「と」絵)」へ その(1)

個人的な「傷(「と」絵)」からみんなの「傷(「と」絵)」へ
バトラー先生の「傷」の話。
千葉雅也先生によると
「あるショックを受けて、まさに、脳のネットワークにばっさりとした、衝撃が起こる。すると、認知過程から思考パターンまで今までと全く別人の認知を持つ人間になる」
それを「傷」という。
僕もまたある「ショック」を受けて、頭が真っ白になり、アクティングアウト(行動化)を引き起こして、、、
「ショック」は「動因」。
その後の頭が真っ白の中での「行動化」、について、どこまで「意味」を求めることができるだろう。
「頭が真っ白」なまま行動化する状態なんて、周囲の人は気が付かない。止められようがない。
自分でもどこまで「自覚的に」「行動」していたのだろう。
思考も断片的で、たぶん、こういうのを「詩」を言うのだろう。
そして、「傷」を負った。

果たしてその「傷」は個人的な「認知」レベルでの範囲にとどまるのか?
それは、周囲を巻き込んで「みんなの傷」として生まれ変わるのではないのだろうか?

果たして、それを「個人的な傷」と個人が引き受け、「治療」の範囲内にとどめることが正解なのか?

「傷を負った後」について
個人(の身体的)レベル
周囲の人間関係レベル
家族レベル
で考えていくと、「傷」が、個人から各レベルへ、「線」がのびていく、引かれる。

もとの「黒」や「白」の色彩を帯びた「線」がそれぞれのレベルの各個人の「深み(日によってその深度が異なる)」に到達すると「真っ赤」「ダーク」「光(ドゥルーズ)」などの色彩を帯びた「認識」「葛藤」などへと「一時停止」する。

それぞれの「色彩」が、「認識」が混ざり合って、一つの「集団の「傷」(「と」絵)」が完成する。ドゥルーズの生成。

その「絵」について、受け取った分だけ、受け止めた分だけ、精神科医大森健一市橋秀夫の力を借りて書いてみる。
激しい絵、やさしい絵「色々」ある。

「これも」「あれも」という多面的、重層的なアプローチが求められる。
「絵」によって、「極めて受け身で傷つきやすく」になる。「内閉的」にもなる。「他罰的で、攻撃的」にもなる。「ささいな出来事で不安や混乱に陥る」にもなる。
それら全部が生成のために必要だ。

どれもこれも、「個人的な」「線」から「集団的な」「線」、そして「絵」へと繋がっていく。

(「個人レベル」での「適応」から、「個人から集団への」橋渡し時の「適応」、「集団レベル」での「適応」、「集団の各個人」での「適応」については、まだまだ考えなくてはならない。思弁的実在論。)

前提として、「絵」に対する、を形成する「主観」を養うこと。
個人的な「傷(「と」絵)」からみんなの「傷(「と」絵)」への「間」の「幅」の中で、それぞれに発生する、している「主観」を大切にすること。

実は、「主観」を大切にするといっても、難しい
「自分がなぜこう考えるか?感じるか?」わからない(いわゆる心の病気もここから発生する)
「客観的なデータ」「証拠」「周りから見た状況」を挙げられてもピンとこない。生きているかんじがしない。

その上で、今回はある種の「傷」から「傷」への「絵」の中で、どう「主観」を「ある幅の中で動いてもらう」か?

「なぜこう考えるかわからない主観」の枠から出て、「行動化」せず「主観」の「消化」「昇華」などにもっていけばいいのか?(これは自分の限界を超えている)

その為の、「絵」の構成、枠などを精神医学から考える。
「主観」を取り扱う様々な「技法」を今回は「絵」に絞って考える。。。。

絵画療法も、いろんな手技を必要とするのは、受ける人の多様性を担保する為。

 

アガンベンの「間」、「無法状態」の「無」をきちんと内面化することの大切さ

アガンベンの「間」
政治的パラダイムとしての内戦
古典ギリシアの「内戦(スタシス)」にまで遡ると「見えてくる」もの
スタシス、都市、家族の「間」、特に、都市と家族の「間」。主権と無法状態の「間」
――都市は家族を包み込むように、家族も絶えず都市に侵入する、そのせめぎあい、その「間」
――家族の中で「法」が一時的に真空状態になり、「主権が政治的に無効化される状態」が発生するときがある、スタシス
(――古代ギリシャでは、「生きること」と「よく生きること」のせめぎあいが発生する、その「間」
――家族の法が真空状態になると、くじによって選ばれた「五人(数はどうでもいい)」が仮の家族を形成する
――その「5人」が都市に吸収されて、安定が訪れる)


「法」が一時的に無効化され「よく生きること」が優先される状態が発生する
どんなに平和な環境でも、「スタシス」が訪れる時がある。

この「法」というものに、普段は囲まれて、保護されて生きているが、
「法」というものは、時と場合によっては「無効化」され
その「無」の真空状態に、人は陥る。

 

そこでは主体のあらゆる側面で、主体と環境
の「間」で無法状態が発生する。

 

その「無」を内面化することは、「よく生きる」上で、とても大切なことであることを
周囲は僕に伝えたかったらしい。
普段の「法」の大切さ、ありがたさ、、
だからこそ「無法状態」を一時経験し、その「無」を心に刻むことの大切さ。

 

僕――その周囲が「無」を教える状態のときに、「錯乱した」「法」の「告発者」にまでいってしまった。ここから長い周り道が始まった。

 

下記の羅列はすべてそんな「無」を作り出す「間」についての箇条書き、メモ

① 話す言葉には、常に権力の力が付きまとう。
言語
1、 言語が取り囲むようにして「存在」する
2、 権力、統治、法が私たちの言語の使用の中で「侵入してくる」
3、 言語は創造的表現を行う。文学、詩、散文などは、言語の使用の経験を「分節化し直して」新たな、言語の使用、展開を行う
 
② 哲学、政治と法、文学の間を往復する運動

1、詩の高みを持つ政治
2、哲学はどのような支配下で行われるか?それを外すための、文学の形象や芸術
3、

③ しるし

1、諸テクストの構造
2、構成
3、表象のされかた、もっというとテクスト自体の提示方法
それらの断片をつなぎ合わせて、ある「展開」を行う
‐‐「思い返す」こと、「寄せ集める」こと
「思い返す」――現在の諸構造のもとの地点までたどり、現在の諸構造を働かせなくすること
――現在の「暗さ」を過去に辿り、現在の「暗さ」を働かなくさせる
「到来する共同体」

④ そもそも存在とは何か?
存在は思考する、が、その思考のベクトルを限定する「力が働いている」「人間」もしくは「動物」
1、 思考と存在の基礎付け
2、 基礎付けるために、絶えず、思考によって、存在の隠れた状態をさぐること
3、 「人間」は、いずれ死ぬ、言語能力をもっている、という二つの特徴
4、 言語について言語でかたることはできる、でも、それは「人間」を通じて、という限定がある。
「人間」は言語を使う、ただ、その言語は学習されてから。言語は使える。でも「所有」することはできない。だから、使用者の中心に奇妙な「否定性」を生み出す。

⑤ サミュエルベケットの混乱
ある形而上学の「一つ目の、根本の諸原則」があって初めて、人は、思考する、存在の本性、「世界」について考え始めることができる
そして、人間と「世界」の間の関係には何か不在のもの、隙間がある――否定性の「場」
存在
――思考の過程は必ずその「場」がなくてはならない。

だから、存在には、否定の力が働き、「人間」は否定性の場自体になり、「人間」は「存在」に到達できないことを余儀なくされる

「人間」は否定的な場からしか語ることはできない

1、「天使たちの言語」と比べ、わたしの「単語の貧しさ」。わたしの「単語」は本質的な仕方で失敗している
2、感覚を言語化することは、難しい。「否定性」――言語の中心の空虚――「単語の貧しさ」を通るから。
逆に言えば、「表現できない感覚を語ることで、否定性を通って語ることで、表現できない感覚を守っている」
3、20世紀文学における「私」という一人称代名詞の問題。
「わたし」や「きみ」が指す参考対象、平たく言えば「現実」とは何か?それはただ非常に特異な「言説の現実」に他ならない。
「私」は「当の「私」を含む言説の現在の審級を現表する人称」を意味する。「私」は語るがそれは言語の「出来事」以上の何物でもない。

⑥ 経験
その核心は、どのように言語を経験するか?に関わっている。
もっというと、言語に先立つ何かがあるということを思う点
言語はそれをなんとか説明しようとする点
がある。
だから、言語化できない経験があるという「事実」が、
言語が経験の全体性や真理を提示できることは「できない」というでかい考え、「点」を形成する。

言語と「言語化できない」諸システムと規則とは等価ではない

その分裂、分割、「あいだ」という場の基礎(点)
それは、「記号」(その個人、集団などの理解の範囲でわかる言語)と
「意味」(その人だけの、ある集団、組織、文化だけの)の二つに分けられる。
(その間に「点」がある)
現在の「意味」が過去の多くの推論や用法をいかに含んでいるか、そのような過去の推論や用法のうち何がいかに失われ、また別の何かは、奇妙な仕方で生きているか?(言語と権力の関係)

ヘーゲル弁証法マルクスの歴史の弁証法とは違う弁証法をとらえるアガンベン
二項的ないし弁証法的な諸構造を用いるのは、さまざまな現象を特徴付けるため。
とはいえ、彼は「もともとの」分裂ないし基礎付け的な分裂があると指摘している
そのような分裂が、その二項の個々からさらに枝分かれしていって、それぞれの弁証法的進行を特徴付けるべく進んでいく
そこで、彼はその分裂によって現在「産出」「生産」されているものを同定しようとする。

それは、ヘーゲル的な二項対立の解消法、現在から過去へと向かい、基礎付けて統合へと向かう弁証法の基礎付け的な契機の思いもよらぬ「堕落」(自らの内に自らの否定を含む。思考の脱線)をあらわにしようとする。

「歴史は常に勝利者によって書かれる」のか?

当の過去が現在においてどのように表象されているか?

⑧ 例外状態
政治における例外はじつのところ規則。
例外は単に排除されているのではなく、包括もされている
政治的秩序の核心には主権的例外化という捉えどころのない形象が働いている
「非常事態」を宣言して、実効的な仕方で法の支配を部分的に中吊りにすることがある
主権的例外者は、「非常事態」によって法の支配の内側に持ち込まれながらもその外側に残っている
例外状態は外と内のあいだにあり、外と内の両方に効力をもたらす「境界」的空間

芸術
1、 人間は、古いものと新しいもののあいだ、過去と未来のあいだの中間世界にたえず宙吊りにされているという自分の歴史的状態を脱することはできないが、
芸術はその人間の無能力をもとに、
人間が現在において自分の住まいのもともとの寸法を測ることのできる空間自体を作り出すことにふたたび成功する。
その空間において人間は自分の活動の意味をあらためて見出すことができる
2、 イメージは、個々に孤立したものではなく、歴史という巨大な映画からとられた一コマ一コマの写真として解される。
これによってイメージは、予測のつく空虚な美術史の説話を脱臼、混乱させるべく働くことができるようになる(別の声が聞き取られる可能性、ただならぬ結びつきが生み出される可能性)
それは、映画の身振りの断片。
3、 身振りと映画
さまざまな身振りと概念(手段)としての身振り
身振りの構造は、行為と生産という二つのカテゴリーの「あいだ」
その「あいだ」は手段と目的のあいだという偽の対立を無為化しようとする
「身振りとはこれこれの手段性を露呈させること、手段としての手段を見えるようにすること」
そのイメージは生にしみこみ、観客である私たちは構築、再構築するという役割を引き受けなければならなくなる。
その役割によってイメージが自由になり、わたしたちも自由になる。


⑨ ある「ポジション」につく私
詩 哲学 批評(詩と哲学の分裂を通じて産み出されたもの)
アガンベンは、その分裂が再び一つになることに関心はない
探ろうとしているのは、何がとうの分裂の媒体になっているか、いかにその分裂が産出されるかが最もはっきりと示される「点」にある。
その「点」を表象する、それが批評
1、 カフカ
カフカの世界において「正義への扉」を提供するのは「研究」
「研究されているがもはや施行されていない法」
カフカの著作に宙吊り行為
――政治的な意味付けを帯びている非労働――
を見出すこと
カフカの糸巻きの描写
 それは――語るものという人間の属性が与えられている。
 それに対して、家長は不安を覚える――自分が死んでもあの「モノ」は永遠に生き残る。
 物体がその物質的諸部分の総和をはるかに超えたモノへと変容させられる世界のイメージ

自己告発者
 自己告発は、自己を相手どって行うので、無意味、告発を無効、空虚にする
 法を本質というより、システムや構造として露にする

カフカの「城」の測量技師のk
 法に法たる権限のもととなっている境界を混乱させる。
 
カフカの「ある犬の研究」の犬
 犬の主人公が研究対象としている「真理の世界」
 彼は、自分の存在が限界付けられ、低俗なものとみなし、それを超越しようと企てる。
 根本的に変わることの失敗。無能さ。
 若いころギョッとするような一群の犬に出会う
「彼らは話さず、歌わず、沈黙していたが、空っぽの空間から魔法のように音楽をとりだしていた」
そこから、動物的欲望を否定することをねらいとする一連の「科学的」「思考」実験が始められる。
「自分の実験は失敗だったが、自分の科学的な無能さは自分を駆り立てる自由を求める本能にもと付いている」

 

 

日本語使うと何が「分」かるんだろうなあ

日本語は、「分かった」

などと言う。

まず、何かを「分け」ないと「了解できない」

珍しいよなあ。

じゃないと、「話が始まらない」

まるで未来が始まらない。

まず、「分ける」、じゃないと「通じない」

日本に帰ってきて、なぜそんなに「分ける」ことに必死なのか?

一瞬で、一言で話を通じようとすることに必死なのか?

じゃないと、「仕事ができない」とか

「話が分からない」とは

果てには、か「わって」いる、とか。

 

千葉雅也も、言ってたな

「動きすぎてはいけない」

要するに、その「分けた」後の世界で

「動きすぎてはいけない」ということだろ。

 

クビになった仕事先で言われたな

俺も社長も、ずるい奴「と」汚い奴が嫌いなんだ。

最初、自分だなと思った。正解

次、だれかを重ねることに。

その次、、、なんか違う。

いろんなグループ見てきたけど、

なんか「ずるい奴」が現れる「と」、並列的に「汚い奴」が現れることに気がついた。超個人的。

更に言うと、○○「と」○○は、並列的になって、グループを巻き込んで、「離脱」「発言」「忠誠」のほうへ行く。

なにか、あらゆるグループの空間には、そのような闇が潜んでいるような気がしてしまう。

この「と」について、考察したのが、ドゥルーズの「資本主義「と」分裂症」だ。

なんなんだろう。

ドゥルーズ自身は精神病という「記号」も、それを帯びた人も大嫌いで、

だから、主体という概念のもとを、ハイデガー

存在「と」存在者(「と」その間の媒介者)からとって、継承してきたといわれている(日本では)

そして、様々な事象に「と」で並列に繋がる主体を概念化した。

 

そのドゥルーズの課題を引き受けたのが、松本卓也で「人はみな妄想する」の中で、グループの闇から立ち上がる並列性を

神経症グループ「と」精神病グループに「分けた」

(お前なら話は「分かる」けど馬鹿にするななどと言われそうだけど、、)

 

他にも、グループの闇には

動物「と」人間

モノ「と」コト

隊長「と」一兵卒

子供「と」大人

男「と」女

(わたしにとって)いいひと「と」きらいなひと

など

いろいろ、一旦、「と」から始まって、「離脱」から「忠誠」へのルートがある。

 

資本主義では、「離脱」から「忠誠」への先は

品質「と」価格だ。

更に、消費者による、

品質が高くても価格が高いので「離脱する」

価格が安くても品質が悪いので「離脱する」

などなどいろんなルートがある。

 

「分かった!」、、この先にはなにが待っているのだろう。

ある「概念」で形成された「世界」だろう。

 

なんとなくせわしなさ、閉そく性、窮屈さを感じてしまう。

 

何をそんなに、「分ける」ことにいつも先を急ぐのか?

「闇」が「分ける」のか?

「分ける」から「闇」が現れるのか?

そして、なぜ、いつも並列性の「と」が待っているのか。

 

「分かった」から「離脱~忠誠」へのルートについて「何も分からないこと」は罪なのだろうか。

 

分からないことでいっぱいなことを前提にして、「一旦留保」にしてはいけないのだろうか?

 

複数の線、傷のケアって、誰の「傷」?

最初の会社がきつかったなあ

手伝い始めて、中国人と16人部屋に寝泊まりし

仕事の「し」もわからんのに、いきなり

「仕事マニュアルを作成しろ」との命令が

一か月で様々な部署、役職をたらい回しにされ、

中国語の通訳、日本人と中国人のトラブル(中国人が低賃金で、上司にいきなりぶん殴られたり、むねぐらつかまえられて、引きずりまわされたりしていた)を調停したりしていた。

マニュアルに、心理学専攻らしく、「心のケアが大事」なんて書いたな。。

 

結局のところ、すべての部署、役職でおまえは使えない!

という結論になった。

「みんな生きるために必死なのよ」

その一言が効いて

最後は、その場の空気で、力関係で、強者になびき、弱者に強い態度をとる人間になっていた。

その会社の社長は、昔、俺様がいじめられて、登校拒否になったこと知っていたのよね。

結局、お前は、トラウマ抱えていても。「曲がるやつ」なんだよ。

今、思えば、別に何かに秀でてなくても、何でも屋でもいいから少しずつ、へらへら仕事やりつつ覚えればよかったものを、、

最後、中国人には「お前は中国的好人」「今度、わたしの故郷に来いごちそうするから」といわれたのが救いだけど、今おもうと微妙。

ある中国人の人は「お金がない。だから、今の状況を受け入れるしかない。」泣きながらか、、

最後、「井の中の蛙大海を知らず」「お前はどん底に落ちろ」という言葉だけが残ったなあ。

 

結局、その会社クビになって、落ち込んで、「グンちゃんは昔いじめられてトラウマがあるのよ、」などといってやさしくしてくれた大学時代の線、、、結局あれは、自分の「風になびく」弱さ見つめてなかったんだな、という結論に痛く落ち込んでいる、わたし。

 

そんな状況をみて、父は「しょうがない、家の手伝いしろ」

 

そこからは、複数の人間関係の束の線。

それぞれの人間関係でも、やっぱり、皆様、俺様がメンタル弱いの承知で

「この人間関係の強度に耐えられれば、まあ、なんとかなるだろう」

という点が、上下強弱あれども、散りばめられている。

 

小学生みたいな思考に戻るけど

複数の線、遠くから見ると、点と点を「足す」「引く」「割る」「掛ける」「重ねる」などなど、やっていた。

「アレンジメント」ってやつね。

耐えられる根性がなかった。

「だめだ」と「この山を越えればなんとかなる」とのせめぎあいで挫折した。

 

そうしたら、今度は、自分ではなく、その人間関係の人たちが

僕とその人たちの間の「点」のところで、周りから「手のひら返し」を喰らってしまった。

その人たちが、周囲から、僕をあんな風にして、虐待だいじめだ裏切りだカネだなど、「冷たい目線」で見られるように。

 

でも、その人たちは、「曲がったりしなかったな」

でも、傷は負った。

こころの傷の「回復」のイメージが語られるようになったのは、90年代からだそう。

 

果たして、「回復」というのは、「誰」に向けられる言葉なのだろうか。

当事者の傷が治ればよいのだろうか?

 

日々変わる「風景」の中で、時折浮かび上がってくる「問題の点」

 

思弁的実在論のメイヤスーは、「神はなんどでも復活する」

などといっていたな。

「一つの物質で世界は一様に変わる」とも言っていた。

 

「日々の暮らし」の中で、何度でも強迫的に復活する「摩擦点」「物質」

 

果たして、それを前にして、わたしはどんな倫理、論理を持つのだろう。